| GAIJIN・ホンネ・インタビュー - 札幌のビジュアルを変える英国人 第20号'01年3月4月号 札幌の広告デザイン業界で動き回っている英国人フォトグラファーがいる。「マルサ」や「ブライダルハウスBiBi」「小樽ビール」の広告など、どこかで彼の作品を目にしている人も多いはず。『翔矢』の名前で知られる彼は、写真に留まらず、『フォトイラスト』を手掛けたり、ニューメディアの会社を立ち上げ中と、まさにマルチな活動ぶり。札幌という異文化の中で次々と新しいことにチャレンジする彼にXeneがインタビュー。 日本語を話せればビジネスチャンスになると思った Xene どうして日本でフォトグラファーをすることに? 翔矢 写真に興味はあったけど、大学ではメディアデザイン・フィルムを専攻していて、元々は映画業界に入りたかった。だけど、たまたまオーストラリアで日本の映画チームのロケ現場を見た時、コミュニケーションが取れてないじゃないか、と思ったんだ。日本語を勉強したらビジネスチャンスが巡ってくるんじゃないかと思った。来日してからは各地を転々とまわって、最終的には札幌が気に入って住んじゃった。2年前に自分でスタジオを建ててから少しづつ出版会社や代理店を紹介され始め、写真やデザインの仕事を始めるようになったんだ。 Xene 実際にどんな仕事をしているの? 翔矢 最近はビデオ機器などの性能も良くなっているから、編集からドキュメンタリーも全部個人で作れちゃうんだよね。日本ではあまりメジャーではないけど、『フォト・イラストレイター』の仕事もしてる。内容は撮影した写真に文字やイラストを入れて、合成作品を作ったりすること。あとはコーポレート・ビデオ(企業紹介ビデオ)を作ったり、小樽ビールの広告を撮影したり・・・。ブライダルハウス・BiBiの仕事では、東京から外国人モデルを呼んで、五〇ページくらいのカタログを作ったりもしてる。これは撮影だけじゃなく、デザインからレイアウトまで全部僕がやってるんだ。他にはビデオやインターネットのウェブサイトなんかも作ってるから、フォトグラファーと言うより、ビジュアルデザイナーって感じかな。 Xene 今後、さらにやってみたいと思っていることはある? 翔矢 今、新しくニューメディアの会社を立ち上げているんだ。インターネット関係はもちろん、フラッシュアニメーションとかモーショングラフィックスとか。例えば会社の印刷物からウェブサイト、プロモーションビデオに至るまで、トータルなコーポレイトイメージを作れるような会社。これからは新しい携帯端末など、メディア自体も多様化するからマーケットはどんどん広がっていくと思うんだ。そうなると僕が学校で勉強したメディアデザインが全部生かせるだろうしね。 Xene 写真家として見た場合に、日本人のフォトグラファーと翔矢の違いはあるのかな? 翔矢 技術面では日本人はスタジオ撮影を行うとき、ストロボ(フラッシュ)を使う人が多いみたいだけど、僕は映画などで使う大きな照明を使うこと、ぐらいかな。あとは僕の見る目や考え方が違うとよく言われる。広告業界は常に新しいアイデアを探してるし、外国人の感覚は新鮮なんじゃない? 僕は自分のアイデアをどんどん話すし。いろんな人間の感覚をミックスすることはバランス的にもいいことだと思うよ。 Xene 学校で学んだ映像の技術は、写真にも影響してる? 翔矢 周りの人からは僕の写真は動きがあると言われる。雰囲気というか。それは映像で学んだカメラワークが生かされているのかもしれない。 Xene 翔矢から見る日本のファッション、デザイン業界はどう? 翔矢 すごくいいと思う。アニメーション映画も最高だし、ファッションデザイナーも世界の舞台で成功してるよね。でも北海道の建築やテレビCMはあまり良くないものもあるかな(笑)。 Xene 雑誌はここ何年かで写真の撮り方やレイアウトが変わってきたように思うけど。 翔矢 そうだね。でもトップレベルのデザイナーの間では、まだ古い考え方が残っている気がする。今の若い人たちが上のレベルに上がってくると、もっと変わっていくだろうね。 Xene これからも札幌をベースに仕事を? 翔矢 うん。デザイン関係の本や海外の雑誌をたくさん置いた喫茶店なんかもつくっていきたいと思っているよ。 Xene 次々と新しいことにチャレンジしていく翔矢の活動には、今後も目が離せないね。今日はどうもありがとう。
GAIJIN・ホンネ・対談 - カナダとロシアの就職活動事情 第19号'01年1・2月 ライアン・ジィグラー 「カナダの就職活動はいつから始めてもOK。卒業してすぐ入社なんて人、あまりいないよ。」 カナダ出身、25歳。アルバータ大学ビジネス学部日本研究専攻卒業。プレジデント・チョイス銀行の営業、アルバータ州政府国際課太平洋地域国際関係スタッフなどを担当後、99年から北海道大学経営学部に入学し、現在は同大学経済学研究課の修士課程に在籍。テレビ出演などのモデル活動も。 アナトーリ・ライデンコフ ロシア出身、28歳。マガダン国際教育大学外国語学部卒業。ロシア海軍入隊の後、マガダン市立の電話会社、水産業、生活用品販売店に勤める。97年から1年間北海道教育大学岩見沢分校に留学後、マガダン大学日本語アシスタント教師に。現在は、道内の海運会社で営業を担当している。
就職に有利なビジネス学部 Xene みなさんの国でいま人気のある職種って、どんなものがあるの? 定期採用は日本だけ? Xene 一般的に、新卒で就職する割合はどれくらい? 景気にもよると思うけど。 難問、奇問で試される即応力 アナトーリ それはどうして? 日本の面接はカタクルシイ Xene アナトーリさんは、日本の会社面接を受けたことがあるんだよね? 北方四島 この近くて遠い島々の現在 - 北の果ての、 美しい島々 第18号'00年11・12月 「北方領土」という言葉に、あなたは何を想い起こすだろうか? 領土問題? 返還運動? 漁船の拿捕事件? それとも・・・? おそらく、一般の日本人にとってもっとも「近くて遠い島」、それが北方四島である。55年前まで1万7000人以上の日本人が生活を営んでいたこの美しい島々。 今では、その視界も島の天候同様濃いガス海霧に覆われ、さえぎられている。 しかし、ガス海霧が晴れれば、そこには荘厳とも言える原始の大自然や、純朴で心温かな人々がいる。この北の果ての美しい島々の、生きた姿がそこにあるのだ。 沖縄や佐渡島よりも「本島」に近く、東京や大阪、京都よりも面積の大きな島、それが北方四島である。根室の納沙布岬から、わずか3.7km。これほど美しい自然に恵まれた、これほど豊かな島々が、これほど目と鼻の先にあることを、私たち多くの日本人は知らない。 それでは、現在この島に住む住民たちは、どのような人たちなのだろうか? 「旧ソ連邦の崩壊後、ロシア全体の政治経済そのものが転換期を迎え、経済は混乱し、景気も低迷しています。それまで島内に肉、牛乳、野菜などすべてを供給していた国営農場も1995年には閉鎖してしまいました。ですから、それ以降、島民は家庭菜園で自ら野菜を作り、牛乳などは、プライベートの酪農家から直接売ってもらいます。もちろん、食料品は内陸からも入って来ますが、輸送コストがかかるため、特に野菜や果物は非常に高いのです(サハリンの約2倍、北海道よりも高いほどです!)。
■ 北方領土問題:第二次世界大戦終結間際の1945年8月9日、ソ連は当時有効だった日ソ中立条約を無視して対日参戦しました。ソ連軍は8月29日から9月5日までの間に武力で北方領土を占領。日本人は強制的に島から退去させられ、以来、今日まで不法占拠の状態が続いています。 ■終戦前の北方四島:終戦前、四島の日本人島民は、豊かな水産資源を基盤に主に漁業を営んでいました。各島には役場、学校、郵便局などが整備され、祭り等の行事なども活発に行われ、子供も大人も豊かな生活を送っていました。1945年8月15日の終戦当時には17,291人が住んでいましたが、1949年(昭和24年) までに財産なども持ち出せないまま強制的に退去させられ、その約8割が北方領土に隣接する北海道本島に居住しました。現在(平成12年3月末)の元島民の数は、9,009人で、当時の約半数の方々が既に亡くなっています。 ■ビザなし交流:北方領土は日本固有の領土です。にもかかわらず、北方四島に入域する際、ロシア側からビザを取得することは矛盾が生じます。このため、領土問題が解決するまでの間、日ロ間で一方の側の主張や法的立場を害することなく、日本−北方四島間の相互理解の促進をするために、平成4年4月からいわゆる「ビザなし交流事業」を開始しました。現在は、元島民やその子供たち、返還運動関係者を中心として、青少年、ファミリー、専門家など各ジャンルに分かれて積極的な交流が進められています。 ■Information ── 北方領土のことをもっともっと知りたい方へ:北方領土に関する詳細な情報は、北海道のホームページを御覧ください。 <クリスティ・ホッパー> 麗珍 <邱 麗珍(きゅう・れいじん)> アメリカ、台湾から来日中のキャリアウーマン2人に元OLの本誌スタッフも交えて、女性がオフィスで働くことについて各国の違いを語ってもらいました。 社内恋愛=セクハラ? Xene 日本の女性雑誌では社内恋愛ネタがよく取り上げられるけど、みなさんの国ではどうでしょう? セクハラ冤罪事件 Xene 実際にセクハラにあったことは? ロシア女性は職場でもセクシー クリスティ ロシアといえば、現地で働いていて驚いたのは、女性が仕事で逆に女らしさを武器にすることかな。例えば、相手から契約を取りたいときに、黒のブラジャーにシースルーの上着を着てニッコリする、みたいなのがわりと一般的だったりして。アメリカならすぐにビジネスウーマン失格になるとこだけど。 社内の男性は恋愛の対象外! Xene 禁止されてなくても、実際に社内恋愛するのって大変だよね。 会社に管理される日本のOL Xene それは日本もだいたい同じかも。昔私のいた会社では半年ごとの個人面談で聞かれたなぁ。「今から1年以内に結婚や出産の予定はありますか」って。結婚したら辞めるだろうって前提なんだろうけど。 麗珍 信じられない! プライバシーの侵害じゃない!?台湾では、結婚や出産で上から辞めさせられるようなことは絶対ない。両立できないと思ったら自分のほうから上司に言う。 クリスティ 私ならボスに「なんなら今からいっしょに子どもつくりますか?」って言ってやるけどね。日本人てそういう方法でも会社にコントロールされてるんじゃないの? Xene なんだかとっても耳が痛いです(苦笑)…… まだまだ日本は女性が働きにくい環境ってことなのね。実力主義でキャリアアップをめざす2人を応援してます。 Internationalization: No Pain, No Gain 第16号'00年6・7月 日本の国際化といえば、かつては姉妹都市交流、交換留学生、親善活動…などが連想された。昨今の状況は少々複雑になってきている。 商店や銭湯への出入りを拒否された外国人が、訴訟や抗議を起こす。テレビに登場する外国人は、実に流暢な日本語で、日本社会の問題を日本人より鋭く解説している。国際化は単なる友好親善ではなくなってきているのだ。 それに対して、日本人側から反発も生じている。先に物議をかもした東京都知事の発言もその一例だ。日本の国際化は、今まさに「苦しみなくして得るものなし」という段階にある。ここにそんな現状と交錯する、ある在道外国人のエッセイを紹介しよう。 ■ 疑わしい疑問 あるテレビ番組でのインタビュー。「国際化」と銘打った番組であるにもかかわらず、真の意図はその逆であるように思えてならない。「寿司は好きですか?」-出た。おきまりの質問だ。期待されている答はもちろん「ノー」である。「イエス」と言ったとたんに、相手の顔にはありありと失望感が浮かぶ。この種の番組の目的は、日本の文化の独自性を強調する以外考えられない。 日本にいると、この種の質問をいやというほど受ける。でも、これらを全て拒絶してはいけない。純粋にコミュニケーションを求める気持ちからなされる質問もあるのだ。「いつ北海道にきたの?」「来日の理由は?」あまりにも月並みな質問だが、聞き手は対話したいと思っているのだ。何度も同じ事を聞かれると、うんざりしてしまう。でも、異文化交流を望んでいる相手を、ぞんざいに扱うのはフェアでない。 「中国では豆腐を食べますか?」こういう無知から生じる質問も、知識を得たいという純粋な気持ちから発せられるものだ。(あなたも帰国すれば、周りの人から「日本人は毎日スシを食べてるの?」と聞かれるでしょう?) 無礼な質問は、その動機が問題だ。「給料いくらもらってるの?」なんて聞いてくる日本人は、相手が外国人だからこんな質問をするのでななく、日本人にも同じことを聞いている、とんでもない無作法者かもしれない。 「郵便局はどこですか?」「今何時ですか?」「いい天気ですね」町を歩いていて、こんな風に話しかけられたら、普通の人間対人間の関係が形成された証拠で、思わずウレシクなる。 その他大勢の外国人と同様、私は寿司が大好き。だから、今度テレビに出るときは、「嫌いな日本食は?」なんて聞かないで欲しい! ■ 文化の評価 私のアパートの近くに、「スナック・カトリーヌ」というけばけばしい看板の店がある。ママらしき中年女性が、店の前の花や植木に水をやっている。夜になれば、艶やかな衣装に身を包み、カラオケセットを準備して、客を待っている。これが日曜を除いて毎日繰り返される。 2つ、ひっかかることがある。この辺りは歓楽街ではなくて、ごく普通の住宅街という点。そして、「スナック・カトリーヌ」に客が入るのを、見たことがないのだ。 最初は、どうせまた外国人の私には理解できない何かがあるのだろうと片付けた。近所に監視カメラ、車3台分の地下駐車場、やけにフェンスが高いアパートがある。その尋常ではない警備システムを指摘したのは私の日本人の友人だった。この辺には、やくざが多いとは聞いていたが、私はアパートの前に停められた高級そうな輸入車にも何の疑問も抱いていなかったのだ。 だからカトリーヌについても、日本人なら一目瞭然なことに私が気付いていないのかも、と思った。日本の文化的な様相を考えに入れると、このママは、日本人の「我慢」や「がんばり」の精神を体現しているのかもしれない。 私の日本人の友人は、さらに想像を膨らませる。このスナックは、ママのかつての愛人が残してくれたもので、ママはひたすら彼の帰還を待っているのではないか。いや、もしかしたら「暴利スナック」かもしれないよ。まてよ、麻薬や売春の仲介をしているのでは…。「いずれにせよ、誰かを待っているんだよ」 真相を確かめるため、いっそお客になりすまして入ってみようかとも思った。でも、今までの売り上げ(おそらくゼロ)を一気に取り戻そうと、法外な請求をされたらたまらない! このママを、日本文化の観点から説明しようとするのは無理がある。所詮、どこの国にもいる「ちょっと変な人」に過ぎないのでは。ビリー・ワイルダーの「サンセット大通り」に出て来た、グロリア・スワンソン演じる落ちぶれたハリウッド女優と、どこか通じるところがある。耳を澄ましてみよう。「黒沢監督、準備OKよ」とつぶやくママの声が、聞こえてくるかも…。 The Magnificent Leaven 第15号'00年4・5月ベーグルは、小麦粉、水、塩、イースト菌(時には麦芽)を材料として作られるパンで、発祥地は17世紀のポーランド。アメリカ大陸には20世紀初頭、ユダヤ人移民と共に渡って来た。今では、世界中で広く食されている。 イヴァン・シャトランは、ユダヤ人の多いモントリオールの出身。北海道では慣れ親しんだベーグルが食べたくても、売っていない。ならば自分で作ろう。こうして「ボンジュール・ベーカリー」が二年前札幌に誕生した。 「デパートで売られているパンは、冷凍した生地を焼いたか、そうでなければ、予め混ぜてある生地に水だけ加えて作ったもの。しかも10種類近い添加物を使っている。お客の目の前で、パンに防カビ剤をふりかけるパン屋もいる。それじゃ、お客に見えないところでは、一体どんな恐ろしいことをやっているやら!」 添加物を一切使わない、頑固なシャトランのパン作りは、テレビで紹介され、話題を呼んだ。ライバルが店に偵察にやってくる。「僕がカナダですし屋をやるなら、きっと同じ事をするけどね」と彼は言う。 札幌の開拓には、多くの外国人が関わった。札幌時計台はその記念碑だ。そして、国際化の新しい象徴が、この時計台の北側に誕生した。「エムズ・ベーグル」だ。 森谷仁司氏は、旅行会社を辞めてこの店のオーナーに。カナダのバンクーバーで出会ったときから、ベーグルは彼にとって「究極の食べ物」だった。 エムズ・ベーグルの人気を支えているのは、低カロリー志向の20〜30代の女性。彼の店では客の要望に応え、商品のカロリーを表示している。 ベーグルは通常ゆでてから焼くが、この店ではゆでずに蒸している。また、日本人の嗜好を考慮して、北アメリカ産の小麦粉に比べグルテンの少ない道産小麦粉を用いている。 一方シャトランは、カナダ産の小麦粉を用い、伝統的なベーグル製法にこだわる。客層の中心は40〜60代。「なつかしい味がする」とよく言われるという。 「おいしいベーグルの見分けかたは、まず半分に割ってみる。<パン>の匂いがしたらOK(前にシャネルの5番みたいな匂いがしたベーグルがあったよ)そして、ぎゅっと握ってみる。元に戻らずに、ぼろぼろこぼれるパンはだめ。かみごたえも大事だ」 琴似八軒にベーグル・カフェ「ムーンソルト」をオープンしたのは、川地弘子氏。店の名前は、月に似たベーグルの形、小麦粉、塩(ソルト)、水のみを原料とすることころから付けた。オープンに先立ち、東京の有名なベーグルショップのマスターのもと、一年間修行を積んだという。開店の資金として道庁から800万円の融資を受けている。北海道のベンチャービジネス支援事業として認められたのだ。 シャトランも道から支援を受けている。「店を開くのは意外と簡単だった。面倒な手続きはほとんどなく、融資にも快く応じてくれた」 シャトランは、「健康志向の高まりから、自然食品への関心が高まっているのは喜ばしい」としながら、国産小麦粉業者は、『外国産は農薬が多い』という誤った概念を消費者に植え付けている、と主張する。「寒冷なカナダでは、化学保存料は必要ない。ウチで使っているカナダ産の小麦粉は有機栽培ではないが、検査で農薬は検出されていない。パンで大事なのは、なんといっても中身だ」 第14号'00年2・3月 Looking Past The Mask ![]() 最近のハリウッド映画では、アジア、特に日本がホットな題材らしい。封切り間近の「Snow Falling On Cedars(ヒマラヤ杉に降る雪、工藤夕貴主演)」では、1950年代の日米文化の衝突がテーマ。ベストセラーになった小説「Memoirs of a Geisha」もまもなく映画化される。 いい傾向だ。これでやっと映画館で、日本人への偏見を目の当たりにして、思わず座席の下に隠れたくなる思いをしなくてよくなるかもしれない。 Xeneが映画関係者や識者に聞いたところでは、慎重ながらも楽観的な意見が大半だった。希望は持てそうだが、ハリウッドにはまだ改善の余地がある−。 「外国人は依然として『ハラキリとフジヤマ』のイメージを抱いている。」札幌スガイ・シネプレックス営業宣伝担当の土田篤氏は言う。 このような固定観念と誤解は前からあった。外国映画に出てくる日本人女性は、控えめな芸者か、そうでなければコワイ女のどっちかだった。日本人男性は悪党、そうでなければお人好し。男も女も、恩義と義務でがんじがらめだ。 かつて観客の共感を誘う(少なくともネガティブなイメージではない)アジア人の役は、主として西洋人によって演じられた。キャサリーン・ヘップバーン、ピーター・コスチノフ、マーロン・ブランド、そして最近ではジョエル・グレーなど。みんな顔を黄色くメークしてスクリーンに登場した。 この根底には人種差別がある、と土田氏は指摘する。もちろん多くの西洋人はこれを否定するだろうし、意識さえしていない人も多いだろう。 外国映画における日本人像を変化させたのは、1980年代の「バブル経済」と「ブラック・レイン」、「ライジング・サン」という2つの映画だった。芸者とサムライから、退廃的雰囲気とハイテク技術を持つ、殺人とカネの国、という新しい固定観念が生まれた。 「ブラック・レイン」は、マイケル・ダグラス演じるニューヨーク刑事が、相棒を殺した大阪のヤクザ(松田優作)を追跡する、という筋。だが映し出された日本の姿は、現実よりもずっとずっと美しく神秘的だ。リドリー・スコット監督の天才的な手腕のなせる技である。 「ブラック・レイン」は日本人をターゲットにしていない、と北海道教育大学札幌校の伊藤隆介氏(美術学科助教授)は言う。脚本家は当時話題になっていた日本を舞台にしただけのこと。要するにギャング映画である。フランスでも、ドイツでも良かったのだ。 ツチヤ氏も指摘するように、松田優作の遺作となったこの映画でも、彼の役はやはり「悪党」である。 ハリウッドの描く典型的な日本人像がここにある。しかし、日本の映画ファンはほとんど気にしない、と北海道新聞に映画評を書くAさんは言う。「分析しようと思うのは専門家だけ」 現代の日本の姿が、海外の人々にほとんど伝わっていないことも問題だ。日本で撮影される映画は少なく、日本映画が海外で上映されることもほとんどない。独自の映画を制作する若手監督が増えたが、その作品は国際映画祭ではもてはやされるものの、観客は呼べず、ましてや海外で公開されることはまれだ。 しかし悲観的要因ばかりではない。故伊丹十三やスオウマサユキのような監督の映画は、現代の日本の姿を描いて、海外でも絶賛されている。両監督の作品は、サムライの時代と現代の日本の間に失われた接点を、外国人に提供しているのかもしれない。 最近のアメリカ映画では、1990年の「Come See the Paradise(愛と哀しみの旅路)」に変化の兆しが見出せる。アメリカ第二次大戦中の二世の苦難を、日本人の妻と家族をキャンプに収容されたG.I.(デニス・クエイド)の目から描いている。1970年代には見られなかった傾向だ。 アメリカへのアジア人の進出が顕著になるにつれ、このような変化は続くだろう、と伊藤氏は言う。土田氏も同意見だ。「アジア人の登場する映画は増えるだろう。そして、現代の日本を描く映画も多くなるにちがいない」 それでもなお、冒頭に紹介した封切り間近の映画二本には「ゲイシャ」が登場する。芸者の出てこない日本映画なんて…、と思っているアメリカ人は、依然として多いのかもしれない。 第13号'99年12月・'00年1月 Hokkaido. Then What? 帰国した外国人たちの今 ![]() 「日本通」と呼ばれたければ、このエキゾチックな国にちょっとの間滞在すれば十分、という古き良き時代があった。帰国後は、あちこちの会社からひっぱりだこ。しかし今では、メディアのおかげで日本の神秘性は薄れ、円高の影響で気軽に日本にやってくる外国人も増えた。「日本での滞在経験は、もはや成功のパスポートではない。しかしやはり、個人的にもそしてキャリアの上でも貴重な経験であることは確か。」と、北海道滞在経験のある外国人は言う。 1980年代後半来日したリン・フレデリックスは、九州と札幌でキャリアを積んだ7年間をこう振り返る。「幸運にも、日本ではハイテク分野でビジネスチャンスをつかんだ。日本語を学ぶだけでなく、文化的側面を理解し、それをビジネスに応用することも大事」。彼は現在アメリカでソフトウェア開発会社の海外進出をサポートする会社「プロアクティブ・インターナショナル」の社長を務める。雇う立場にある今、日本通であることは有利な条件ではあるが、本質的にプラスとなるものではない、と彼は考える。「日本に通じていることは、業務に関連する単なる一要素であって、絶対的なものではない。滞在経験はできるだけ最近のものが望ましい。バブル崩壊後、日本のビジネス方式は変わってきているので、5年前以上前のものだとあまり価値がない」。 豊かな国際経験は以前ほど珍重されなくなったが、まだ需要は高い、とフレデリックは考える。「しかし残念なことに、『日本で英語を教えた』だけでは、帰国後は教育分野以外では評価してもらえない。一番いいのは日本の会社で、特にハイテク産業で働くことだ。私もそんな人を雇いたい」 キャリアアップを目指す外国人なら、「長く滞在しすぎる」という危険を冒してはならない。北海道で12年教えたあるカウンセラーは「異文化経験は就職に有利、と言われたのに、帰国後、クラスで就職先が最後まで決まらなかったのは私」。日本にいる間、専門分野におけるアメリカでの「常識」から疎くなってしまった。就職後、それがもとでトラブルが起きた。彼女にすれば患者を守ろうと好意でしたことだったのだが。擁護してくれた二人の上司は解雇された。「私の経験から言えることは、帰国後仕事をしたいなら、あまり長く日本に滞在しないほうがいい、ということ」 日本はもはや神秘の国ではなくなったが、それでもやはり、日本での滞在経験によってビジネスチャンスが生まれることもある。 カリフォルニアのビジネスマン、パット・ウスカートは「日本に住んだことがある、と言うと、アメリカ人はみんな大いに興味を示す」と言う。「ロサンゼルスタイムズに載っている求人広告を見ると、『日本語堪能な人材』を求める会社が多い。もう一年長く日本にいればよかった」 日本から帰国した人々は、日本企業の支社で働くか否かでしばしば迷う。JTBニューヨーク支店は、日本から帰国したばかりのティム・カラハンを面接後、即採用した。しかしカラハンは2ヶ月で退社。「JTBの同僚には何の不満もなかったが、いわゆる『ガラスの天井』にうんざりした。JTBでは外人で出世したやつはいない。たった1人の例外は『職業軍人』で、奥さんは日本人、一生日本人として生きていこうと意を決した男だった」「JTBは日本のビジネス文化の面白い部分(宴会がしょっちゅうある)と、いただけない部分(朝8時半から夜6時までと長い勤務時間、安い月給)をそのままニューヨークに持ち込んでいる。あのままJTBにいても先は知れていた」 これから帰国しようとする人への彼からのアドバイスは「自分が何を本当にしたいのかを考えるということ」。「日本に行く決心をして、そこで何年か過ごしたからといって、帰国後それを実証しなくたっていいんだ」 第12号'99年10・11月 聞こえる騒音、聞こえない声 〜札幌の騒音事情〜 ![]() 気持ちの良い秋の昼下がり。部屋に流れる心地よいBGM。ふと、あなた窓を開けて日差しと新鮮な空気を楽しもうという気になり、窓を開ける… 突然、音楽は消え去り、空気が止まる。太陽と新鮮な空気のことなど頭の中にはもうない。あるのは、窓から流れ込んでくる、音の洪水だ。札幌にようこそ! 混雑やゴミ問題とおなじように、騒音は札幌という都市が抱える問題の一つである。それは世界中のどの都市も同様であるが、札幌市役所によると約200万人の人口を持つ都市としては苦情は少なく、過剰な騒音が問題となることはあまりない、と言う。 しかし、この教科書通りの分析で、現在世界中で大きな問題となりつつある都市の騒音問題に対する考慮が十分と言えるのか。札幌のように観光に大きく依存している街にとっては、死活問題ともなりかねないのではないか。 札幌市によれば、騒音に関する苦情は他の公害に対する苦情と比較して非常に多い、とのこと。市環境局の千秋氏は、苦情に対しては、全て真剣に対処している、と話す。 「苦情があれば、すぐに市の職員を現場に直行させます。現場では騒音測定を行い、耐えられる程度のものかどうかを判定します」。今回のインタビューも、当初、予定していた上司が現場に急行したため、急遽、千秋氏と話すことになったものである。 札幌市における騒音の規制値は世界中の規制値とおおむね同じ程度である。よく見受けられるのは「85デシベルの騒音に8時間以上被曝」、というもので、これがひとつの目安となっている。しかし、現在、札幌市ではLEQという算出方法を採用し、どの程度の騒音を受けたか、を積分し数値化している。これによって、例えば、ある時間は85デシベルを下回っており「8時間以上」という条件に違反していないようであっても、総体として同じ量の騒音にさらされていたと認定することが出来る。 人間が通常耳にする音は、0から140デシベルの間である。普通の会話では58から60デシベル程度。そして85デシベルを越える音にさらされると、聴覚に障害を生じる恐れが出てくる。正確な数字ではないが、Xeneが街で測定した調査では、すすきののあるパチンコ店の店内では85から90デシベルの値を記録した。千秋氏は「パチンコ店では100デシベルを超えることもあります」と言う。100デシベルと言えば、85デシベルの騒音に比べ、危険性が32倍ともなる値である。 騒音が規制値を超えている場合、市はその音源に対し「行政指導」をする、と千秋氏に聞いた。この「行政指導」とは、ある意味では「命令」ととられるようなものである。もし、指導に沿って改善がなされなければ、次は公式な「警告」となり、法的な問題になりかねない。しかし、千秋氏によれば、ほとんどの場合、苦情を申し立てられた人々は協力的であるとのことだ。 ― しかし、協力的でない場合、指導・警告を無視、または、意図的に騒音を出している場合はどうなるのだろう?その良い例(もしくは悪い例)が暴走族と右翼の街宣車である。しかし、「これらに関しては法的な強制力を持つ、警察の管轄になります。」と千秋氏。 これに対して、警察という権力が本当に効果をあげているのだろうか?あの滑稽なノロノロ運転の暴走族とパトカーの追いかけっこは日本中で見られるし、街宣車の堂々とした態度には、違法であるという自覚は全く無いように見える。街宣車の騒音で5回逮捕というケースがある。「いつも同じ人なんですよねえ…」と千秋氏。 騒音に関するもうひとつの問題は、法的な規制にはかからないものが多い、ということである。千秋氏によれば、苦情が申し立てられたケースの多くは、値としては規制値を超えていないものであるという。従って、法律的には何の問題もない。そのような場合、市としては、その音の発生源に対して「お願いをすることもある」そうだ。これはつまり、新千歳空港の隣に住む、もしくは、GLAYがお宅のバルコニーで演奏する、と言った事態にでもならない限り、法的な庇護は望めない、ということだ。 現状の取り組みは、騒音は単なる感覚的な問題以上のものであるという世界的な傾向にも逆行している。西洋諸国では、医療関係者、政府、そして住民運動グループが一体となり、騒音を生活の質、ストレス、さらには子供の教育問題とも絡めて議論しているのだ。EU(ヨーロッパ諸国連合)の資料では、騒音はヨーロッパ大陸における主要な環境問題のひとつである、と位置付けている。バンクーバーでは、将来大きな問題となるであろうことを予測し、騒音を「90年代の静かな環境問題」と報告している。日本では、今だに「公害による健康被害」と「感覚公害」の間に大きな隔たりがある。聴覚障害に関しては、工場や空港などの問題として注目されるにとどまっている。 千秋氏は個人として最近の研究結果に注目しているが、騒音が健康被害であるのか、感覚公害であるのか、という国の判断を待たねばならない、と言う。 札幌市の他の部局についても、出来うる対応は限られている。自動車環境係では道路を走る自動車に対する苦情に関しては、住民が自己の判断でそこに居住したのだからそれは分かっていたはずだ、という見解をとらざるを得ないという。 日本では長い間、「公共の福祉」の名の元に個人的な被害はなおざりにされてきた。しかし、徐々にではあるがそれも変わりつつある。1995年、20年にわたる係争の後、兵庫県内の国道と高速道路からの騒音・排ガスの被害に関して国と道路公団に責任がある、との判決が下された。国と公団は損害賠償を支払うことになった。これ以降、道路行政に変化が生じた。 しかし、この様な決着をみることは少ない。札幌には騒音問題を専門に取り扱う弁護士はいない。騒音に関する苦情が弁護士事務所に持ち込まれた場合、起訴にまで発展することはまず無い。二重窓などの防音工事の費用を相手側に出してもらいなさいとアドバイスされて終わるのがほとんどだ。 世界的に見ても、騒音問題に対する関心が高まっていくには時間がかかる。「我慢」や「しょうがない」という言葉を頻繁に口にする日本がこの分野でリーダーとなることは考えにくい。しかし、住んでみたい土地として羨望の的になっている札幌が、全国に先駆けて問題解決への方向性を指し示してもよいのではないか。 その時が来るまで、部屋の窓をしっかりと閉じ、「しょうがない」と思って「我慢」するしかない。 第11号'99年8・9月 巡りめぐる人とモノたち 「ゴミ」「がらくた」「廃棄物」・・。いろいろな呼び方があるが、これらを「宝物」「商品」と呼ぶ人々がいる。外国人 −そして予想以上に多くの日本人− が夜な夜な「ゴミあさり」に出かけ、そして生活用品として再び使っていることはご存知だろうか。 ![]() ここに、ゴミをカネに変身させている外国人が一人いる。彼の名はマイケル・ゴードン。8年間に渡り日本のゴミを世界中の人々に販売し成功を収めている。これまで、遠くはイギリスまで、ラジオ、ステレオ、冷蔵庫、洗濯機、タイヤなどいたるモノを販売してきた。 ゴードンのこの風変わりな成功の裏側には風変わりな人生がある。インタビュー中、この50歳になるオーストラリア人は突然違うアクセントで話し出す。少年期から23年間、35歳になるまでアメリカのフィラデルフィアで過ごしたという。そのため、話題によってメルボルン訛りになったり、フィラデルフィア訛りになったりするらしい。彼は生来「なんでも屋」である。例えば、西オーストラリアにある金鉱でのダイナマイト仕掛け。ダイナマイトを運び、仕掛け、そして爆発させる。なかなか魅力的な仕事であった、と彼は言う。又、来日前に古い洗濯機の修理とその販売もしている。当時の彼の顧客の中に、2年間の札幌での滞在を終えて、オーストラリアに帰って来たばかりの若い夫婦がいた。ゴードンに札幌行きを勧めたのは、実は彼らだった。「『お金がなくて、知ってる人もいなくて、しかも仕事が決まっていない人は、札幌に行くといい』と彼らに言われてね。それは俺だなって思った」 札幌に移住後、英語講師をしていた彼がゴミ販売の起業家となったのはちょっとしたきっかけだった。「ただ単に、人々のニーズにあった商品があって、チャンスに出合ったというだけの話さ」とゴードンは言う。その「商品」は粗大ゴミの回収日前にゴミステーションに行けばいくらでもあった。2年前に札幌市が粗大ゴミに関してチケット制度を導入するまでは、ゴミステーションは「商品の宝庫」だったのである。 ![]() 絶えることがないと思われるほどの「商品」。次はその商品に対するニーズを探すことだった。港の雰囲気を海を愛するゴードンは、よく小樽に出かけていた。そして、そこで「ニーズ」に出会ったのだった。 ある日、小樽港を散歩していると波風に傷められた船が何隻も並んでいるのを見かけた。「それらの船に、なぜかいろんなモノを積み込んでいる人達がいてね。それはロシアの漁船団だったんだ」 彼の両親はポーランド系ユダヤ人で、第二次世界大戦が始まった時、スターリンが率いる国の領土にいたということで、ヒトラーの残虐行為から間逃れることができたという経緯がある。 だから、「小樽でロシア人達に出合った時、不思議と親近感を覚えた。日本でのカルチャーショックを彼らが和らげてくれた」とゴードンは言う。ゴードンは日本の生活に馴染めず、他の外国人との出会いを求めていた当時を思い出しながら語る。 ロシア人との出会いから数ヵ月後に購入した小さなトラックにより、「販売」の流通体制は整った。「ゴミがある。トラックがある。そしてロシア人がいる」彼はトラックに商品を詰め込み小樽に向かった。そして、商売はすぐに始まった。「トラック一杯のモノを積んで港に行ったら、僕がただの観光客でないことはすぐに分かってしまうのさ」。ゴードンが最初に学んだロシア語は"Skolka?"(いくら?)だった。 あっという間に彼のサイドビジネスは成長し、ロシア人はゴードンが持って行った全ての品を喜んで買って行った。当時値段は、洗濯機2,000円〜3,000円、ステレオ3,000円〜5,000円、そして冷蔵庫3,000円〜8,000円ほどであったという。 ゴードンはゴミを販売してはいたものの、電化製品販売店から出る、客と交換した古い電気製品が主だった。彼はそれらを時間を掛けて、使えるかどうかを慎重に検査した。住んでいた小さなアパートの部屋には大きな電化製品を持ちこめないので、3階の部屋の窓から延長コードを伸ばし、下に置いたトラックの荷台に積まれた電化製品をテストするしかなかった。「垂れ下がった延長線と、冷蔵庫やステレオに囲まれた俺を見て、みんななんだと思っただろうね」。ビジネスが好調の時は、手稲に倉庫を借りるほどだった。 次の商品になったのは車だった。ロシア人達は最初からゴードンになぜ車を売らないのかをいつも聞いた。2年と半年に渡る順調なゴミビジネスは、そこから「車の渦の中に吸い込まれて」行った。 購入から運送、そして販売にいたるまで、中古車を扱うのはとにかく時間と労力が必要だった。そうして、ゴードンはゴミからは徐々に撤退していく。電化製品と同様に、ゴードンが売った車はもともと業者が客と交換した古い車。トヨタのディーラーに入った日産車、もしくはその逆など。そして電化製品と同様、いい商品はそのような「ゴミ」の中にいくらでもあった。日本の伝統的な「新しいもの好き」文化に感謝するばかりである。また、彼は車を買い換えた方が安上がりな結果となる日本の車検制度の恩恵にもあずかった。「この国は世界で一番多くいい中古車がある場所だね。特に6年から12年目のものが沢山ある」 しかし、ロシアの不況そしてルーブルの切り下げが彼の商売の分岐点となった。今ではもう、ウラジオストックの車置き場には車が山積みになっていて、抜け目のないディーラー達が円やドルの相場ではなく、ルーブルの相場で商売を始めたのである。日本で中古車を仕入れるロシア人の姿もめっきり減った。 それを機に、ゴードンはオーストラリア、ニュージーランド、そしてイギリスに向けて中古車の販売を始めた。1ヵ月に彼が送る車の台数は6〜8台。そこそこの商売にはなっているという。 8年間の日本での生活を終えて、ゴードンは来年の春、日本人の妻と一緒にメルボルンに帰る。しかし、彼は中古車販売は続けて行くという。札幌にいるエージェントから送られてくる車を、オーストラリアで販売するという方式で。 ![]() ゴミの販売から中古車の販売に変わったとしても、彼は昔のお客さん達を忘れたことはない。彼が出会った全てのロシア人の名前、そして彼らが乗っていた70隻にもなる船名が書かれているノートを今でも大切に持っている。「彼らとは、すぐにビジネスだけではない付き合いが生まれたからね」と、ゴードンはロシア人達と過ごした時を思い起こす。しかし、楽しいことばかりではなかった。彼が出会ったロシア人の中には、出会って数週間後に船が事故に会い行方不明になったり、あるいは沈没などで、戻らぬ人となった人々がいる。ある時は、友人のロシア人達が酒に酔い、殴り合いの喧嘩をするのも見てきた。「船乗りの人生は簡単じゃない」と静かな声でゴードンはいう。 日本のゴミ事情に関して、外国人は単純に良くないことと批判しがちだ。しかし、ゴードンは違う視点でそれを語る。彼いわく、古いものを棄てて、新しいものを買うという、買い替えの早いサイクルが日本の戦後経済を支えて来たのだという。どんどん生産し、そして消費することによって。そして、日本国内で生まれるそのお金が、アメリカから大豆、そしてオーストラリアから羊毛を輸入するための資金となっていくのである。「日本人の‘新しいもの好き’文化が、世界中の農業と産業を支えているんだ」 日本人のゴミの産出量は変わらない。そして、この‘新しいもの好き’文化が発展する限り、マイケル・ゴードンのように「ゴミ」をもう一度、価値あるものに変える人間が現れ続けるのかもしれない。 第9号'99年4・5月 試される地ビール いよいよ、春の到来。桜の下にはビールの大河が滔々と流れ出す季節だ。さて、今年の花見にはいつもの6缶パックではなく、ちょっと違うモノを試してみるのはどうだろうか?そう、北海道には今、地ビールが数多く存在している。 挑戦 いわゆる大手のビールは、その供給量、手に入れやすさはもちろんのこと、いつも変わらぬ味を提供している。しかし、地ビールの魅力は、それぞれの持つ奇抜さと独特の雰囲気にある。 「大手さんのビールはどれもそれほど味に変りがないですね」。と言うのは、北海道地ビール連絡協議会の事務局長でもある桑原稔明氏。「だから、あんまり興味をひかれないんですよ」。桑原氏のみならず、既存のビールに対する不満は多くの人が共有するものだった。酒税法の緩和によって出現した地ビールはその不満にようやくはけ口を与えた。 欧米では20年以上前、すでに地ビールの出現している。しかし、日本においてはほんの最近まで「密造酒」以外の自家製ビールは存在していなかった。1992年、札幌に住むフレッド・カフマン氏は、NHK札幌支局の地下で醸造されていたビールの存在を暴露し、規制緩和そして地ビール解禁へののろしをあげた。 当時、年間2000キロリットル以上の生産力がなければビール醸造の免許を得られなかった。これをクリアできるのは、大手のビールメーカーのみであり、事実上地ビールに対する障壁であった。しかし、ついに1995年、酒税法が改正され、年間60キロリットル以上の生産量でビール醸造の免許が下りることになったのである。 この時を待ちかね、準備を重ねていた挑戦者達がいっせいに立ち上がったのである。1996年2月に新潟の越後ビールが出荷を開始し口火を切った。それに遅れること3ヶ月、北海道初の地ビール、「オホーツクビール」が北見に誕生する。 現在、北海道には30近い地ビールがあり、その数はさらに増えていく。しかし、新たな挑戦者の顔ぶれは様々である。親会社の強力なバックアップのもと、研究を重ねていくもの、少ない資金をもとに情熱だけを武器に道を切り拓こうとするもの・・・。 理想のビールを求めて ![]() 乱戦模様となってきた道内の地ビール業界に新顔が登場した。札幌センチュリーホテル内のレストラン、ティファニーに併設された醸造所で発酵を見守る醸造長、桑原氏である。水元氏や、海鱗丸ビールの猿渡氏などのベテランに対し、桑原氏のビールとの付き合いは短い。 2年前の桑原氏はビールが苦手で、醸造に関する知識など皆無に等しかった。地ビールに深く関与するようになったきっかけは、業務命令だった。ある日、桑原氏はセンチュリーホテルを経営する札幌国際観光(株)の社長、藤江彰彦氏にビール醸造、開発の命を受けたのである。 これを期に、桑原氏の、理想のビールを求める旅が始まった。3日後にはすでに、札幌を離れていた。1年にわたりヨーロッパ、アメリカへ飛び、のべ183ケ所の醸造所を訪れ、飲んだビールは実に570銘柄を超えた。その中で特に印象に残るのは、静岡の御殿場ビールで受けた100日間の研修。そこでは、まさしく、下積みの「修行」が待っていた。床掃除ばかりの毎日。「これがビールづくりなのか?」自問自答が続く。しかし、それによって清潔であること、また、水を選ぶことの重要性を体得したのだった。 ホテルに帰ると、いよいよ「自ビール」の開発に取りかかる。桑原氏が選んだのは、ドイツビール。主要銘柄はヴァイツェン、ドゥンケル、そして、ピルス。このピルスには桑原氏、一流のこだわりがある。「チェコのピルセン地方で作られたビールだけが、ピルスナーと呼ばれるんです。だから、うちはピルスナーと呼ばない、『ピルス』で止めているんです。」 保存料や添加物を使わず、大手のビールとは一線を画してきた地ビール。味に多少のブレが生じるのは必然である。しかし、それが地ビールの楽しみでもあるのだ。「札幌地麦酒」では季節に合わせ、微妙に味を変え、「『いつもと同じ』ではない」味を提供している。 「違うモノ」を ![]() そんな桑原氏に対し、猿渡肇氏はまったく異なった方向からアプローチした。15年前から小樽でレストラン、フィッシャーマンズハーバーを経営していた海鱗(現 海鱗丸ビール)では、提供する魚料理にあったワイン、日本酒を自主開発していた。さらに、魚料理と一緒に楽しめるビールを自ら開発することを決定したのだった。 現在、ヘルシンキでも日本料理店を経営している同社は、当初は、ドイツの設備、技術者を導入する計画を建てていたが、日本人の口に合う、特色を持った、独自のビールを開発するためには自力で進めるしかない、という結論に達し、既存のビールに全く拠らない商品の開発に踏み切ったのである。そのために、開発メンバーはすべて日本人、設備は失敗を繰り返しながら自らの力で作り上げていった。 このような方針をとった背景には、アメリカの経験から学ぶものがあったという。日本に先駆け、規制緩和をしたアメリカでは、同じように多くの地ビールがドイツの技術を導入し出発したが、多くは途中で挫折し、明確な特色を持った地ビールでないと淘汰されてしまうという現実がある。 これを聞き、海鱗丸ビールの方針は変わっていった。長年の苦難の後出来上がったビールは、人によっては「ビールではない」といわれるようなモノであった。甘味が強く、カクテルのよう、そして、シャープな後味。猿渡氏はそれを「ビールとは違うモノ」と認めている。海鱗丸ビールにとってビールは「単なる魚料理の脇役、引き立て役」(猿渡氏)であるからだ。 「目隠しをしていくつかの地ビールを飲み比べて見て下さい、多分違いは分からないと思いますよ」と猿渡氏。同じようなビールが競い合うため、すでに淘汰が始まっている。苦戦をしいられている地ビールも多いという。その中で、海鱗丸ビールがどのような方向に向かっていくのか。猿渡氏は言う、「全く分かりませんね、独自ということはデータがないということなんです。将来に関しては五里霧中というのが正直なところです」。 地ビールの定義とは? 前述のカフマン氏も、横並びの地ビール、という意見に賛成している。「どこに行っても、デュンケル、ヴァイスだもの」とカフマン氏。それに対し彼は、そば、チョコレート、さらにはオレガノを入れたビールを作り、独自性を出している。カフマン氏の「蝦夷ビール」。オレガノを入れたビールは古代ローマの貴族、将軍達が飲んでいたものを再現したのだという。 彼の蝦夷ビールは、別の意味でも話題にのぼっている。「北海道の地ビール」であるのか、という点である。蝦夷ビールはアメリカ、オレゴン州のローグ社という地ビールメーカーで依託生産し、北海道に逆輸入している。なぜ、北海道に醸造所を作らなかったのか、理由は簡単である。彼の経営する(株)ロスチャイルド サッポロの社員は彼一人であり、醸造所を建築する余裕などなかったのである。札幌に住んで21年、札幌が自分の住む場所、と公言し、蝦夷ビール自体も注文がない限り札幌でしか手に入らない。ハスカップを含め、原料の多くも北海道産の物をオレゴンまで運んでいる。しかし、道内に醸造所を持っていないことが「北海道の地ビール」として認められない原因となり、北海道地ビール連絡協議会への入会を拒まれている。 「確かにアメリカで醸造している。しかし、空のボトルにバドワイザーを詰めて売っているわけじゃない」とカフマン氏は言い切る。 同協議会のような情報共有や交換の機関はこれから重要になっていくだろう。北海道の地ビールにはこれからも続々と新手が参入してくるのは確実である。遅かれ早かれ地ビールは供給過多に陥ると予測する向きもある。その時点から、本格的な淘汰の時代が始まるだろう。 しかし、どこが勝ち残ったとしても、つまることろ最終的な勝者は、北海道に住むビール好きの輩だろう。次から次へと新しい味を楽しめるのだから。今度はどんなビールが北海道に登場するのか、楽しみだ。 |